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休日の本棚 麒麟がくる

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左:現在の本能寺 右:明智光秀織田信長ら武将が眠る高野山

 おはようございます。

沢尻エリカ事件で色々ありましたが、来年1月からNHK大河ドラマ麒麟がくる」がスタートします。2週間遅れでのスタートのようですが楽しみです

私は、謎多き武将、明智光秀に昔から興味を抱いていました。

そこで、明智光秀本能寺の変関連の本を何冊か紹介します。

  1. 本能寺の変431年目の真実」 明智憲三郎著 文芸社文庫。この本は、明智光秀の子孫である明智憲三郎氏が多くの資料を基に本能寺の変の真相に迫ったものです。本能寺の変の真相については諸説あり、明智氏の見解もその一つにすぎません。この本を読みながら、素人歴史探偵として本能寺の変の謎ときに挑むのも面白いでしょう。
  2. 「信長はなぜ葬られたのかー世界史の中の本能寺の変ー」安部龍太郎著 幻冬舎新書。この本は歴史小説家で直木賞作家の安部氏が、本能寺の変の真相に迫ったものです。日本の戦国時代は世界史から見れば大航海時代、この時代に鉄砲をはじめとする南蛮文化やキリスト教が伝来しました。イエズス会によるキリスト教の布教活動とスペイン・キリスト教と決別した信長、その中で本能寺の変が起こったとする世界史的な新たな視点で書かれたもので面白い本です。
  3. 明智光秀早乙女貢著 文春文庫。これは光秀が本能寺の変後の山崎の戦いで敗れて死なず、数奇な運命をたどり豊臣秀吉徳川家康の生涯にも影響を与えるという伝奇小説です。明智光秀南光坊天海になったという天海=明智光秀説(伝承)をベースにしていて肩の凝らない歴史伝奇小説としてお勧めです。

さて、明智光秀については、早乙女氏の小説にあるように山崎の合戦で死なず生き延びたとされる伝承が各地にあります。

  1. 大阪府岸和田市大徳寺。ここには光秀の唯一の肖像画が残されています。この肖像画には、光秀が生き延びて僧侶になったと読みとれる一文があります。また、光秀の位牌があってその裏に「慶長4年(1599年)にこの寺を開基した」と記されています。慶長4年(1599年)は本能寺の変・山崎の合戦(1582年)の17年後で光秀は山崎の合戦で死なず生き延びたということになるというのです。
  2. 大阪府高石市の日向山・光秀寺。ここは光秀公縁の寺とされ、明智家の家紋桔梗紋があります。「和泉伝承志」では山崎の合戦で死亡したのは影武者であり光秀は和泉貝塚に向かったと記されています。
  3. 滋賀県大津市(坂本)の長寿院。ここには光秀が江戸時代慶長20年(1615年)に寄進したとされる石灯篭があります。
  4. 比叡山松禅寺。ここにも光秀が慶長20年(1615年)に寄進したとされる石灯篭があります。
  5. 岐阜県山県市中洞。光秀が山崎の合戦で死なず「荒深小五郎」と改名し関ケ原の合戦まで生き延びたという伝承があります。山崎の合戦で影武者として亡くなった荒木山城守に対する恩義から荒木の恩は深いとして「荒深」を名乗ったとも言われています。
  6. 天海=光秀説の根拠・・・①天海が建立に関わった日光東照宮には明智家の家紋である桔梗紋が多くみられること②日光に明智平という地名があり天海が名付けたとされること③徳川家光の乳母春日局は光秀の重臣斎藤利三(光秀と姻戚関係とも言われる)の娘福であり、春日局が天海に初めて会ったときに「お久しぶりです」と挨拶したといわれていること④天海が作ったとされる童謡かごめかごめが天海=光秀を暗示していること、などなど

本能寺の変はなぜ起こったのか、その黒幕は誰か、謎に満ちた明智光秀、光秀生存説など歴史のロマンを感じます。偶にはこうしたロマンに浸るのも面白いですね。

歴史のロマンを感じながら「麒麟がくる」を見るのもよいかもしれません。

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