休日の本棚 ツァラトゥストラを読む
おはようございます。
今日は、新型コロナの話は置いて、ニーチェの「ツァラトゥストラ(Also sprach Zarathustra)」(中公文庫)を取り上げます。
ニーチェは言うまでもなくドイツの哲学者です。数年前に、白取春彦氏の「超訳ニーチェの言葉」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が流行りました。こちらはニーチェの言葉をかなり異訳したもので(だから超訳となっています)、内容的には物足りなく、その意味で初めてニーチェに接する人にもわかりやすくなっています。
ニーチェは、既存のいかなる価値や権威にとらわれず、徹底して「反(アンチ)」の立場を貫き通した思想家です。
ニーチェによれば、「今やもろもろの道徳理想は消滅し唯一人格神である神も死んだ。これまでのすべての価値は無に帰した。いや、それらがもともと、無の意志に基づいて建てられた偽りの人生解釈であることが暴露された。今後は、私たち一人一人が、新たな価値定立の主体として雄々しく生きねばならない。そしてそのために、私たち一人一人が各自の所業によって、従来の一切の価値転換が試みられなければならない」と強調されるのです。ニーチェが説くこの新しい人生肯定の途は、まことに険しい孤独な人生を強いることになりますが、孤独の苦難に耐えて孤高な生を貫く強靭な自己を練り上げるためには、無限の自己超克を積み重ねねばなりません。本来の人生とは、こうした自己超克の過程そのものに他ならないのです。孤高に耐えて強健な主体的人生を生きる高貴な生き方を選ぶことによって人類の目標である「超人」を生み出すための懸け橋となることこそが、人間本来の生き方でなければならないのです。
「ツァラトゥストラ」の主人公ツァラトゥストラは、30歳の時に山に入ろ籠っている隠者です。その後10年ほどで溢れんばかりの知恵が溜まりそれを分け与えんと山を下りて説教をしようと決意するところから物語が始まります。次第に弟子が増え様々なテーマで説教を行い、また「わたしはいま、君たちに命ずる。わたしを捨てて、君たち自身を見出すことを。君たちのすべてがわたしを否定して自立することができた時に、そのときにこそわたしは、君たちのもとに帰ってくることになろう」と言って弟子を残して山に戻ったりします。山を出たり入ったりを繰り返しながら説教が続いていくのです。「ツァラトゥストラ」は哲学書というよりも物語的で詩的であり、その意味でニーチェの思想を読み解くのが難しい反面、心に突き刺さる言葉となるのです。
この「ツァラトゥストラ」の主要なテーマは、「超人」と「永劫回帰」です。
ツァラトゥストラが山を出て町に入った時、綱渡り芸を見つめる群衆に対して発した「人間は、動物と超人との間に張り渡された一本の綱である」という有名な言葉があります。これは一種のダーウィンの進化論のような言葉ですが、人間とは動物から超人に向かう間の存在であり、人間そのものではまだ駄目で人間を超えていかなければならないと主張しています。そして、「超人のために没落せよ」と言う言葉が何度も出てきます。この言葉は、「自分が超人になれなくても超人を生み出す努力をしろ。自分の後に超人が生まれればいい」という意味でしょう。
ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」というのは、直接にはキリスト教の神が信じられなくなったことを意味します。しかし、それは同時にこれまで信じられていたヨーロッパの最高価値がすべて失われ、人々が目標を失ってしまうことをも表しています。まさに現在もそのような時代です。「どこに向かって生きていけばいいのか分からない」人が増え、多くの人が不安や危機感を抱いています。だから、ニーチェの思想は現代においても意味あるものとなるのです。
「ツァラトゥストラ」に「末人」というのが出てきます。「末人」とは、ツァラトゥストラにとって最も軽蔑すべき人、「憧れを持たず、安楽を第一とする人」です。こうした末人に対して人類の新たな目標として「超人」を提示します。しかしニーチェは「超人とは何か」について書いていません。固定的なものとして捉えられることを恐れたからでしょう。「超人」という固定的・絶対的目標を掲げてしまえばそれがまたキリスト教の神のようになってしまいます。一人一人が自分なりに創造的な方向性を見つけ各人が目標を設定し積極的に生きていくことが必要なのです。ニーチェの思想は、破壊と再建のたえざる生成の渦中を通して自らの本質を実現し、そのたえざる自己実現の過程を通して様々な価値観点を設定してその生の秩序を整えるとともに、更にそれを乗り越え破壊してより高見へとその価値観点を移動させていくのです。行き詰った時代に新しい発展方向を探求しようとする人々を導いて自由な活路を示し、新しい未来を切り開く創造的活動のエネルギーを供給するという機能を果たすのです。新型コロナウイルスの脅威で不安を抱き人生の目標を失っている時代にこそふさわしい思想なのではないかと思います。
次は「永劫回帰」です。永劫回帰とは世界が永遠に同じ姿を繰り返すというもので、私たち一人一人がほんの些細なことに至るまで今と全く同じ人生を何度も繰り返し生きることになるのです。宇宙の中の物質とエネルギーの状況は絶えず変動していますが、無限に長い時間経過の中には過去のある時点と全く同じ物質とエネルギーの状態になることもあるでしょう。そうなれば、その時点から同じ歴史が繰り返されることになるというのです。人生には苦悩があります。「ああであったらよかったのに」と言ってみても同じ人生が繰り返されるのです。それならば、「後悔することなく今自分が納得できる生き方をすればいい」「自分の人生の中に悦ばしいことが一つでもあれば生きることを肯定でき何度でも人生を繰り返すことができるのではないか」ということです。たった一度でも本当に魂が震えるようなことがあるなら、その人生を、その生を肯定でき、生きるに値するものになるだろう、たとえ悲しみや苦しみがあったとしても「よしもう一度この人生を」と思えるのではないかと言うことです。
「今」という混迷した時代を真剣に生き抜き、少しずつでも「人生とは何か」「いかに人生を歩むか」考えながら、自己を高め次につないでいくことこそがニーチェが目指したところではないかと思います。
「ツァラトゥストラ」から勇気をもらえるニーチェの言葉をいくつか示しておきます。
- 人間は動物と超人との間に張り渡された一本の綱である、深淵の上にかかる綱である。
- 私は愛する、没落する者として生きるほかには、生きるすべをもたない者たちを。それは彼方を目ざして超えていく者だからである。
- 君は君の友のために、自分をどんなに美しく装っても、装いすぎるということはないのだ。なぜなら、君は友にとって、超人を目ざして飛ぶ一本の矢、憧れの熱意であるべきだから。
- 人間が復讐心から解放されること、これがわたしにとっては最高の希望への橋であり、長い荒天の後の虹であるからである。
- 私の兄弟よ。私の涙を携えて、君の孤独の中へ行け。わたしは愛する、おのれ自身を超えて創造しようとし、そのために滅びる者を。
- 勇気は最善の殺害者である。攻撃する勇気は。それは死をも打ち殺す。つまり勇気はこう言うのだ。「これが生だったのか。よし。もう一度」と。
- 私の教えはこうだ。飛ぶことを学んで、それをいつか実現したいと思う者は、まず、立つこと、歩くこと、走ること、よじ登ること、踊ることを学ばねばならない。最初から飛ぶばかりでは、空高く飛ぶ力は獲得されない。
- 一つ!おお、人間よ。心して聞け。 二つ!深い真夜中は何を語る。三つ!「わたしは眠った、わたしは眠った」 四つ!深い夢からわたしはめざめた。五つ!世界は深い。六つ!昼が考えたより深い。七つ!世界の痛みは深い。八つ!悦びーそれは心の悩みよりいっそう深い 九つ!痛みは言う、去れ、と。 十!しかし、すべての悦びは永遠を欲する。十一!、深い深い永遠を欲する。十二!
- わたしはまだ私の子を産ませたいと思う女を見出したことがない。しかしただ一人ここに、私の愛する女がいる。おお、お前に私の子を産ませたい、私はお前を愛しているのだ。おお、永遠よ。
- 深みへ、深みへ!私の釣り針よ。下れ、沈め、私の幸福という餌よ。お前の最も甘美な露を滴したたらせよ、わたしのの心の蜜よ。深く食い込め、わたしの釣り針よ。あらゆる黒い悲愁の腹中へ。 かなたへ、かなたへ!わたしの目よ。おお、わたしをめぐって、なんというあまたの海!明けゆく人間の未来!そして頭上にはーなんというばら色の静寂!なんという晴れわたった沈黙!