中小企業が日本を救うbusiness-doctor-28

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休日の本棚 不道徳な経済学

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おはようございます。

昨日の新規感染者は全国で573人、そのうち東京220人、神奈川78人、大阪61人、愛知40人、沖縄12人などとなっています。東京は6日ぶりに200人を超え、大阪では、「感染傾向は減少傾向にあるが、若い人や寄りの街を訪れた人への感染が再び増加している」との認識の下、「大人数で唾液が飛び交う飲み会や宴会の自粛」要請を10月9日まで延長することを決めました。気の緩みが再拡大につながります。今日から4連休ですが、気を引き締めて生活していきたいと思います(旅行など遠出の予定はありませんが)。

さて、今日は、ウォルター・ブロック著「不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ」(ハヤカワNF文庫)を紹介します。「言ってはいけない」「上級国民/下級国民」「マネーロンダリング」などの著書を出している作家橘玲氏の翻訳(翻訳と言うより、意訳を通り越して超訳です)で面白く読める本です。経済学と名打ってますが、根底にはリバタリアニズムの哲学があります。著者のブロック氏はロヨラ大学の経済学部教授で、この本は今から40年以上前に出版されノーベル経済学賞受賞のフリードリヒ・フォン・ハイエクに絶賛され世界10か国以上で翻訳されベストセラーとなりました。そして再び注目されています。

本書では、「不道徳」の烙印を押された荒唐無稽な登場人物が現れ、著者は彼らを「ヒーロー」と呼び、リバタリアンの立場から擁護するレトリック、ロジックを展開していきます。最初は「そんなバカな」と思いつつも引き込まれ納得させられている自分がいます。私たちが生きている「今」という「自由な世界」で「自由」とは何なのかを考えされられる本です。

まず、政治や経済の代表的な立場には、功利主義共同体主義リベラリズムリバタリアニズムの4つがあります。功利主義ベンサムが提唱する「最大多数の最大幸福」を掲げ、共同体主義はいわゆる保守主義で伝統や文化、道徳に価値を置く立場です。リベラリズムリバタリアニズムはともに「自由主義」と言われますが、リベラリズムは日本で言うところの「進歩主義」で、人権を守り、自由で平等な社会を目指します。それに対してリバタリアニズムは「自由原理主義」と言うべきもので、「自由」を至上のものとしつつも「結果の平等」を否定します。彼らは「機会の平等」は重視しますが、結果は自己責任というわけで、国家の機能を可能な限り縮小し市場原理による社会の運営を理想とします。著者のブロックはこのリバタリアニズムの立場に立脚して、「不道徳」の烙印を押された者たちを擁護していくのです。

本書の趣旨は、次の3つの主張を展開することにあります。

  1. 「不道徳な人」は暴力を伴う悪事を働いているわけではない。
  2. 実質的にすべてのケースにおいて「不道徳な人」は社会に利益をもたらしている。
  3. もし「不道徳の人」の行為を禁じるならば、私たち自身が損失を被ってしまう

そしてこの本、著者が立脚するリバタリアニズムの基本は「誰の権利も侵害していない者に対する権利の侵害は正当化できない」というところにあります。極端な話をすると、徴税はリバタリアンの原則に反しているということになるのです。税金の支払いを拒絶する人は、誰かの権利を暴力的に侵害しているわけではありません。むしろ、徴税は善良な市民に対する、国家による暴力的な権利の侵害ということになるのです。支払った税金に対して国家からの見返りがあったとしても結論は変わりません。徴税は「取引」ではなく一方的な強制だからです。徴税を断る自由がなく、リバタリアンの立場に反するのです。

ここで取り上げられている「不道徳者」は多岐にわたりますのですべてを紹介するわけにはいきませんが、何人かの不埒者に登場していただき、著者のレトリックと言うか、ロジックを紹介します。著者の主張であって私自身の考え・意見でないことを前提に、好意を持って、あるいは批判的に読んでください。

1 売春婦

売春とは「金銭を介した性的サービスの自発的な取引」と定義され、この定義の本質は「自発的な取引」「好きでやっている」ということです。ビジネスの長所(短時間労働、高収入)と短所(警察の取り締まり、ポン引きに支払う仲介料、気の滅入るような職場環境)を考慮したうえで、売春婦自ら進んでその仕事を選んでいて、嫌になればいつでもやめる自由があるのです。では、なぜ売春婦への嫌がらせや法的禁止が行われるのでしょうか?売春禁止に熱心なのは売春婦でもなければ客でもなく、この取引に直接関係のない「第三者」なのです。この取引に何の利害関係も持たず、何の権限もなく、無視されて当然の立場にある者が、売春問題に介入するのはばかげていると言っています。ここから極端な話になりますが、「すべての人間関係は売春である」というのです。私たちは性的活動を行う際、常に取引や金銭の支払いが発生しているとまで言います。売春においては取引の申出は金銭の提供によって行われますが、それ以外の場合は、男性は映画や食事を与え、女性は身体を与える、結婚について言えば夫が経済的側面を担い、妻が家事労働とセックスを担当するのであれば売春モデルと変わらないと言うのです。ここで著者が言おうとしているのは、人間同士の自発的な関係はすべて取引であり、売春も同じだということです。リバタリアンの立場からすれば、誰にも迷惑をかけず、自由な取引でなされているならそれを規制する必要はないということになるのです。ドイツ、スイス、デンマーク、ベルギー、オーストリアなどのヨーロッパ諸国において既に売春は合法化されています。「性の自己決定」というフェミニズムのテーゼに照らせば、個人の自由な意思で選択したセックスワークを否定することはできないのです。

2 ポン引き

ポン引きは、売春婦を餌食にする寄生虫のように扱われていますが、ポン引きという行為自体が邪悪なものではありません。ポン引きの役割は「ブローカー」であり「仲介業者」なのです。ブローカーを利用した顧客は、取引のいずれの側もその仲介によって利益を得ています。ポン引きも同じで、客は自分で女の子を探すより楽だし、売春婦にとっても客を探す手間はなく望ましからざる客や警察からも守られているのです。売春婦がポン引きから搾取されているというのなら、工場経営者も商品で一儲けをたくらむセールスマンから搾取されていますし、労働者も経営者から搾取され、女優もエージェントにぼったくら、「世の中はぼったくりであふれている」とまで言っています。ここで言われているポン引きはまともなポン引き(?)で、売春婦に暴力を振るったり軟禁・監禁するようなポン引きは論外です。

3 麻薬密売人

覚せい剤の中毒者は少なくとも1日に1万円はシャブの購入に費やさなくねばならず1年間で400万円近い大金を支払っています。この多額なコストが「人間やめますか」と言われる覚せい剤中毒者の悲劇的な状況を生み出しています。1人の中毒者がシャブの購入代金を得るために手当たり次第に犯罪に手を染めるのは明白で、こうした中毒者による犯罪被害は年間で数千億円にも及ぶことになります。こうした被害は、覚せい剤による中毒のためではなく、法によって覚せい剤を禁止した結果だと強調します。本来であれば、覚せい剤の製造コストは風邪薬やビタミン剤の価格と大差ありませんが、法によって禁止したことで付加的コストが加わり高額なものになったというのです。シャブの売人が一人路上に立つことで需要と供給の法則によってシャブの販売価格が下がり、売人が一人減るごとに価格は上昇することになるとも言っています。更に、覚せい剤が依存症の唯一の対象なら、絶対的な悪になりえますが、アルコールやギャンブルやセックスなどほかにも依存症の対象はあります。これらが違法とみなされないなら覚せい剤だけを違法視するのは間違っているというわけです。覚せい剤や薬物で人に迷惑をかけない以上、リバタリアンの立場からは規制すべきではないということになります。ドラッグには大麻・ハシシュのようなソフトドラッグと、覚せい剤、ヘロインのようなハードどドラッグがあります。スペイン、チェコ、チリ、コロンビア、カナダと次々に大麻合法化に踏み切り、アメリカでも2014年のコロラド州を皮切りにカリフォルニア州など計10州とコロンビア自治区(ワシントン)で娯楽用大麻が認められています。連邦政府の麻薬統制予算は年間200億ドルにも達し刑務所を満員にする以外手の施しようがなく、ハードドラッグ解禁の過激な主張が力を持つようになっています。

4 シャブ中

ある人がどのような人生を選ぼうが、その人の勝手です。楽しいことをして太く短く生きるのも良し、色んなことを我慢して細く長く生きるのも良しです。薬物もまたしかりと言うのです。薬物中毒を非難する議論の中に「人の責任能力を失わせる」と言うのがあります。責任能力を失わせる恐れのあるものを禁止するなら、酒はもとより、パチンコ・競馬・競輪・競艇の類もすべて禁止しないといけません。「覚せい剤中毒はそれ自体が悪ではない。酒やたばこと同様使用者自身の健康を害することはあっても他者に危害を加えることはない」「覚せい剤を法で禁止することは、シャブを打ちたいと願う個人の権利を明らかに侵害している」とまで言っています。これがリバタリアンの発想であり、考え方なのです。

5 ツイッタラ

イッタラーとはツイッターで呟く人です。原書では「誹謗・中傷者」ですが、橘氏の意訳・超訳です。最近SNSでの誹謗中傷が問題となり、それが原因で自殺者も出ています。著者は、ネットで匿名で誹謗中傷を行う人々の言論の自由こそ支持しなければならないと言います。人は自分の評判を所有できないというのです。自分の名声が誹謗中傷で奪われたと感じても、そもそもそんなものは所有していないのだから、その回復を法に期待するのは間違っているというのです。誹謗中傷が規制されれば、ネット上の匿名掲示板の投稿の信用度は高まりますが、逆に規制がなければ信用度は低下します。言論の自由の一部として誹謗中傷が規制されなければ、ネットの掲示板を見た人はそう簡単には信用しなくなるというのです。どれが本当でどれがでたらめか分からなくなって、人は誹謗中傷を話半分に聞いて受け流すようになるというわけです。

6 ダフ屋

コンサートやスポーツイベントのチケットを定価で買って高値で売ることを「詐欺だ」という批判は経済的に分析すると全く当たりません。ダフ屋家業が成り立つ前提は固定されて変更不能なチケットの供給量にあります。需要に応じて追加的にチケットの枚数が増えるならばダフ屋家業は成り立ちません。限られた供給量で需要が増えれば、価格が上がるのは当然なのです。また、購入者からすれば、仕事を休んでチケットを買うために並ぶより仕事をして稼いだ方がチケット代が1日分の給料よりも安ければダフ屋から買った方が得だという判断になりますし、十分な資本もない人が商売を始めるならダフ屋ほど最適は仕事はないというのです。ダフ屋は、需要と供給の法則によってチケットの価格を調整することで、富める者の努力が正当に報われる手助けをしていると言っています。リバタリアンの立場からすれば、ダフ屋は誰にも迷惑をかけておらず、市場経済の原理に忠実に従っているというのです。

7 闇金融

消費者金融商工ローン闇金融などの高利貸しほど、侮蔑や誹謗中傷の的になり誤解に晒されていると言っています。彼らは社会に必要なサービスを提供しているだけだというのです。金貸しは「自分のお金もしくは他人のお金を誰かに貸し出す」ブローカーにすぎず、闇金からお金を借りた人は合意の上で業者と契約しているだけだというのです。ここでもリバタリアンの主張が全面に出ています。利子を取ってお金を貸すことは搾取ではありませんし、「適正な価格」同様、公正な金利なんてものは存在しないというのです。金利が高いと思えば借りなければいいだけのことです。利息制限法は貧乏人に災難を、金持ちに利益をもたらすと言っています。法の趣旨は貧しい人たちを高利貸から守ることにありますが、その結果現実には貧乏人は全く借り入れることが出来なくなってしまっているのです。

8 ニセ札づくり

偽造とは「所有者の権利を侵害して違法に製造されたもの、金銭を詐取する目的に本物と偽ってコピー商品を売りつけること」と定義されます。ニセ札があまりにも巧妙にできていて誰も気づかなかったら誰が損失を被るのでしょうか?それは社会全体ということになります。ニセ札によって通貨の流通量が増え物価が上昇するので社会全体に損失を与えるというのです。それにもかかわらず、著者はなぜニセ札犯を「ヒーロー」と呼ぶのでしょうか?先ほどの定義からすれば、本物ではなく偽物を真似してコピーしても偽造ではないということになります(詭弁のような気もしますが)。本来貨幣というのは金や銀など価値があるものを言い、単なる紙幣は国家が作った貨幣の偽物に過ぎないというのです。国家が作った偽物の貨幣である紙幣(ニセ札)を真似して作っても偽造ではないというわけです。「彼らの行為は詐欺ではないし不道徳でもない。なぜなら、彼らは本物のお金を偽造して、それで誰かをだまそうとしたわけではないから」と言っています。

以上の他にも多くの不道徳な人たちが登場しますが、人に迷惑をかけなければ(人の権利を侵害しなければ)自由であるというリバタリアンの考え方が妥当かどうかは各々が考えてみてください。

私自身は納得できるところとどうもしっくりしないところがありました。

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