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休日の本棚 「論語」を読む

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おはようございます。

昨日の新規感染者は全国で643人、そのうち東京270人、神奈川91人、大阪66人、愛知24人、沖縄20人などとなっています。朝日新聞の記事によれば、9月18日~24日までの1週間の感染者数は東京1040人(前週9.11~17 1164人)、大阪414人(前週539人)と減少傾向にありますが、陽性率は東京4.0%(前週3.6%)、大阪5.8%(前週4.8%)と高くなり、感染経路不明者の割合も東京52.2%(前週49.5%)、大阪67.4%’(前週55.6%)と上がっています。まだまだ警戒が必要な状況です。

さて、昨日は「諸葛孔明の兵法」を紹介しましたので、今日は肩の凝らない本を紹介するつもりでしたが、最古の「論語の写本」が発見されたというニュースがありました。論語の注釈書の1つ「論語義疏」について、6世紀~7世紀初めに書かれたとみられるものが慶応大学を中心とする研究チームにより日本で発見されたのです。「論語」は本文に添えて内容を解説する注釈書を通じて伝わり、「論語義疏」のような注釈書を含めて広い意味で「論語」とみなされています。今回発見されたものは6~7世紀初めに書かれたものとみられ日本の寺社などで大切に保管されてきた伝世品で最古の可能性が高いということです。中国では、12世紀ごろに「論語義疏」は失われており、これが6~7世紀のものとすれば世界最古ということにもなります。この写本は、文字の形などから南北朝末から隋の時代のものとみられ、日本の奈良から平安時代に活躍した藤原氏の所蔵を示す印が押されており、遣隋使か遣唐使によって日本に運ばれたもののようです。そうなれば国宝級の大発見ということになります。

そこで、今日は「論語」について紹介します。金谷治訳注の「論語」(岩波文庫)と基にしますが、齋藤孝訳「現代語訳論語」(ちくま選書)の方が読みやすいかもしれません。ただ、齋藤孝訳は、意訳、超訳といった感があり、正確さから言えば岩波文庫の方だと思います。

論語」は孔子(前552~前479)を師と仰ぐ弟子たちが、孔子の死後に、各自が記録していた言葉や対話・討論を持ち寄って編集したものです。弟子から孫弟子へと口頭で伝えられ孔子の死後50年くらいたって書かれ書物となったと伝えられています。元の言葉の付加的なものが切り捨てられ本質的な部分だけになり、弟子たちの頭の中で昇華され結晶されたものが残ったと言われています。

日本では「古事記」に、百済和邇吉師(「日本書紀」では王仁)が、「論語」10巻と「千文字」1巻を天皇に献上したと書かれ、聖徳太子憲法十七条(604年)には「第一条 和をもって貴しとなす」と論語の「礼はこれ和を用うるを貴しと為す」(論語学而篇第十二章)を基としているとみられる文言があり、6世紀には日本に伝承されていたと考えられています。

孔子の生涯をたどることで、孔子の思想に触れてみたいと思います。

孔子は紀元前552年に今の山東省の小都市国家魯国に生まれ、庶子であり父母が幼少期に亡くなったので少年時代の生活は苦難に満ちていました。論語の中にも「吾少なくして賤しかりき。故に鄙事に多能なり」(子罕編第六章)とあります。孤児として貧困と闘いながら生きた若い孔子が求めたのは富、つまり財産を作り高い社会的地位に就くことでした。しかし、孔子が生きた春秋時代の乱れに乱れた社会において尋常の手段で風紀を得ることは難しく、自らの良心に背いた行動を取らない限り目的を達することなどできません。「富にして求めべくんば、執鞭の士と雖ども、吾れ亦たこれを為さん。如し求むべからずんば、吾が好む所に従わん」(述而篇第十一章)と言っています。

孔子は、生まれ故郷の魯国の制度と文化を信じ、好み学んでいきます。孔子の精神は津よぴ道徳意識によって特徴づけられる理性とともに絶えず美的なものに引き付けられる鋭敏な感情にも恵まれ、また音楽にも興味を抱きます。講師は美と善は究極においては一致すると考えます。先ず古代文明の美に引き付けられ、そこに最高の道徳的価値を見出していくのです。「信じて͡͡古えを好む」(述而篇第一章)、「古えを好み、敏にして以てこれを求めたる者なり」(述而篇第十九章)「図らざりき、楽を為すことの斯に至らんとは」(述而篇第十三章)「美を尽くせり、また善を尽くせり」(八佾編第二十五章)と言っています。

孔子は決まった師から正規の学問を受けたのではなく、あらゆる伝手を求めて古典の教養を身に付けました。「夫子いずくにか学ばざらん。而して亦た何の常師かこれ有らん」(子張編第二十二章)とあります。

「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして迷わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲するところに従って矩を踰えず」(為政篇第四章)とあります。孔子が15歳で学問を志したというのは郷党に入って礼儀作法の教育を受けたということで、30歳になって完全に独立独歩で学問の道を進む自信を得たのです。孔子が魯国の周公の創造した礼楽を知るために重要な手掛かりとしたのが「詩経」です。いい歌というのはまず感情が自然に流露したものでなければならず、美しい詞章を人間性の表現としてとらえ、そこに深い教訓を読み取ろうとします。「詩経」とともに孔子が重視したのは「書経」です。特に魯国の周公がいろいろな機会に述べた訓戒を伝えている部分です。

孔子は「礼」を最重要視します。「礼」とは何かを定義を与えているところはありませんが、儀式における礼儀作法のことと考えられています。「説文解字」によれば「礼とは履なり。神に事えて福を致す所以なり」とあります。礼とは人が従うべき慣習で、供物をささげ神をまつる儀式・作法を起源とするものです。

マイケル・ピュエット著「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」(早川書房)によれば、「感情を抱くことは人間が人間たるゆえんだ。感情の修養につとめ他者に対する相応しい反応の仕方を習得する。よりふさわしい反応の仕方が自分の一部になる。反応を磨けるようになるれば、感情をむき出しにするのではなく、習得した相応しい形で他者に応じられるようになる。反応を磨く手段が<礼>だ」というのです。「孔子の礼には変化させる力がある。少しの間わたしたちを別人にしてくれるからだ。礼はつかの間の代替現実を創り出してくれる」のです。「重要なのはあえて別の自分になることだ。代替現実に足を踏み入れたことを自覚して自分の新たな一面を想像する。それができれば喜びと敬意に満ちた関係を育む助けになるばかりか、その体験の積み重ねが長い時間とともにどんな人間になっていくかに影響を及ぼす。礼を繰り返すことで自分の多様な側面を開発でき、ひいては人間関係をも向上させる」と言っています。

30歳の孔子を憤慨させたのは、魯国の豪族たちの横暴でした。「八佾、庭に舞わす。是れをも忍ぶべくんば、孰れをか忍ぶべからざらん」(八佾篇第一章)とあります。孔子は三家の非礼に対する激しい反感から魯国を去り斉国に行きますが、ここで君主権の脆弱化・豪族の専横は魯国の特殊な問題だけでなくどこの国でも普遍的な傾向であることを体験します。祖国魯国を改革し礼が正しく行われる立派な国に仕立て上げるしか道はないと決意するのです。孔子が「四十にして迷わず」と言ったのはこうした心境を表しています。

孔子は魯国の定公から中都の町長に任じられ、その後司法長官に任じられます。この時の孔子の願望は三家の専横を排除して魯国の君主制を強固にして周公の礼を再現することでした。これを天から与えられた使命であると考え「五十にして天命を知る」としたのです。しかし、孔子の企画は失敗し、失意の孔子は魯国を去り旅に出ます。孔子は「自分は乱世を太平の世に返す使命を天から授けられている、悪人どもがどう妨害しようとも天が下した命をどうすることもできない」と固く信じ、宋国をはじめ多くの国で自分の使命を果たそうとしますが、豪族らの反対や妨害にあって果たすことが出来ません。孔子が祖国を後にして14年の歳月が流れ、祖国に残した弟子たちのことが気になり、彼らの教育に従事しなければならないと考えるようになり、魯国に戻り弟子たちの教育に力を入れるようになります。

孔子の門下はその得意とするところにより、徳行・弁論・政治・文学の四科に分けられます。徳行の中で孔門最高の徳は「仁」です。「仁」という字は「人」と「二」から成り立っています。人間が仲間の人間に対して持つ同情心、愛が基になっています。人間が誠をもって他人に接すれば自然に「仁愛」が生まれるはずだというのですが、なかなか難しいことです。孔子は「仁」についても定義を行っていません。自分が他人からどういう風に取り扱われたら愉快であるかという経験や感情を他人に移入し、そのように他人を扱うことで仁が達せられるというのです。このことからすれば、孔子は「自分の感情を抑制して礼、つまり規範に従うことが仁だ」と解釈しているのです。ピュエットは「仁は他者に対してふさわしい反応ができる感性と言える。細やかな感覚を磨くことで周りの人のためになるように行動し、その人たちのよい面も引き出せる」と言っています。「礼」を繰り返す人生を通じて、周りの人に親切にする術を感じ取る能力が身に付き、この能力こそが「仁」すなわち人間の善性なのです。

「己れを克めて礼に復るを仁と為す。一日己れを克めて礼に復れば、天下人に帰す。仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや」(顔淵篇第一章)とあります。孔子は、礼によってのみ仁を修養できると説いています。また仁を実践する生活を送って初めていつ礼を取り入れ、いつ作り変えるかを体得できると言っています。

ピュエットは「うまく仁を実践し続けることが出来たとして、そこから何が得られるかなど考えず、今ここでできることに集中すべきだ」と言い、「私たちは煩わしい現実世界の中で努力して自分を磨くしかない。<礼>こそが新しい現実を想像し、長い年月をかけて新しい世界を構築する手段だ。人生は日常に始まり日常に留まる。その日常の中で真に素晴らしい世界を築き始めることが出来る」とも言っています。

孔子の時代の貴族は戦時に甲冑に身を固め敵と戦って国家を防衛する武士でした。彼らは、礼・楽・射・御・書・数の文武六芸に長じていなければなりませんでした。徳川家康が「論語」の講義を聞き「論語」を推奨したのは儒教道徳の中に「君主」「士」を理想の人間像とする武士道的道徳が内在していたからです。徳川時代を通じて、「論語」は消化され、日本人の血となり肉となり、現在においても息づいています。

そして、論語の精神はビジネスにも生きています。新紙幣の顔となる日本実業界の父渋沢栄一氏の経営哲学の根底には論語の精神が息づいています。渋沢栄一著「論語と算盤」は、また近々紹介します。

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