松下幸之助の3つの教え
おはようございます。
昨日の新規感染者は全国で1万5515人で、このところ1万5000人前後で小康状態です。当然のことながら、都市部の減少傾向も鈍化しています。外国人旅行者の受入れや県民割拡大など政府の緩和傾向の影響を受け、増加に転じないように願います。
さて、今日は、ダイヤモンドオンラインの「もし『経営の神様・松下幸之助』が現代の社長だったら・・・先見性溢れる3つの教え」という記事を取り上げます。
松下幸之助氏は言わずもがな、松下電器(現パナソニック)の創業者です。「経営の神様」と呼ばれていますが、PHP研究書を設立して倫理教育や出版活動の乗りだし、更に松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも努めています。
松下幸之助氏は「道をひらく」「若さに贈る」「人生心得帖・社員心得帖」「人を活かす経営」「実践経営哲学」「運命を生かす」など多数の本を出版し、多くの明言が載せられています。
この記事は、「21世紀の今でも十分に通用する松下幸之助の教えとは何か?」というテーマで、松下幸之助氏の3つの教えを紹介しています。
1.教えその1:社長を「数百人単位」で育成する
昭和の時代、高度成長期にあって、大企業の社長は偉そうに社長室にふんぞり返り、部下の重役に指示を出し、部下は右往左往する、という状態でも会社は周り順調に成長していました。そうした時代に、松下幸之助氏は、松下電器を多くの事業部に分け、事業部長に「社長の責任」を負わせ、自らは株主のような立場で指導していました。本当に、事業部長に「経営責任」を負わせるのです。
事業部は、トースターとか炊飯器とか、それくらい細かい商品単位で別れていて、それぞれの字業務は独立採算制になっていました。そこにまつした幸之助氏が回ってきて、経営指導し、業績が悪ければ容赦なく叱責するのです。この叱責が事業部長には怖くて仕方ありません。真っ赤な顔をして怒り、最後には「会社から貸した金を引き上げる」というのです。「l君の経営にはお金を貸せないので、自分で頭を下げて銀行から借りてきなさい。それができないなら君の事業部は倒産だよ」というのです。
「社長が株主で事業部が会社」というのは、当時では画期的な経営手法でした。松下電器を真似る企業もありましたが、実際に事業部長に経営責任を負わせ、金策に走らせるというところはありません。
以前紹介した稲盛和夫氏の「アメーバ経営」では、大きな組織をアメーバと呼ばれる小集団に分け、その小さな集団にリーダーを任命して、共同経営のような形で会社を経営するという手法を採っています。これは松下幸之助氏の経営手法を真似した(参考にした)ものですが、稲盛氏にしても、リーダーに金策に走らせるという経営責任まで負わせるということはしていません。
松下幸之助氏は、「社長がひとり社内でふんぞり返っている会社よりも、何百人もの社長が社内で育っている会社の方が強い」ということが分かっていたのです。松下幸之助氏は、このように社員が育っていく仕組みを作ったのです。
この考え方は、現在、社内起業制度などを始めた大企業が松下幸之助氏から学んで実践しているとも言えます。ようやく時代が松下幸之助氏に追いついてきたと言っても過言ではありません。
2.教えその2:CFOを事業部に配置する
松下電器の経営手法について、他の大企業床と異なるところは、経理社員制度です。
これは、残りの一般社員のキャリアとは大きく異なります。多くの一般社員はやがて事業部長になるために、ジェネラリスト(総合職)として配置転換しながら、営業部・企画部、工場を経験したり製品開発をやったりとさまざまな業務を経験し、育っていくのです。それに対して、経理については「経理は経営管理のこと」という考えから、経理のスペシャリストを育成します。キャリアのはじめから経理部門に配属し、その後異動を行なわず、経理の経験だけを積ませるのです。そして、40歳には各事業部の経理責任者になれるように育てるのです。経理社員は本社から派遣され、本社から別れた事業部に帳に使えるという二面性を持った仕組みになっています。事業部というベンチャー企業のCFOに当たり、事業部長の右腕として事業部を支えるとともに、本社の社長である松下幸之助氏にも仕えるという立場です。
事業部長が間違った経営方針で暴走した場合、それをただす役割を果たせることになります。事業部長は経理社員をクビにできないように身分がほ保証されており、事業部長に面と向かって正論を述べることができるのです。
3.教えその3:間違っていたら頭を下げて謝る
パナソニックの謝子に刻まれる一大事件として有名な「熱海会談」が1964年に開催されます。3年前に会長職に退いた松下幸之助氏が号令を掛け、全国の営業主張、販売会社や取引先の社長に「一人残らずお集まりいただきたい」と伝え、熱海のニュー不二やホテルでエンドレスの営業会議を開いたのです。終わりが設定されておらず、この会議は3日間続くことになります。
1960年代は高度成長期にあり、1964年度はオリンピック景気と呼ばれる好況が続いていました。ところが1964年末から1965年にかけれ反動で証券不況と呼ばれる大不況が日本経済を襲い、複数の大企業が倒産し、最後は日銀による金融機関への特別有して事態が収束するという歴史的大不況がやってきます。
こうした前触れの時期に熱海会議が招集されました。招集された時期には、まだオリンピック景気のまっただ中にありましたが、各事業部から上がってくる数字を見て、松下幸之助氏は今後の流れを敏感に察知します。
当時、松下幸之助が目指す事業部の姿は「無在庫経営」でした。親会社の販売業績は好調そうに見えても、流通の末端に行けば行くほど在庫が積みアガッチェ経営が苦しくなっていたのです。上からの押し込み販売で販売店が苦しんでいたのです。苦境を訴える販売店と「売れないのは販売店の責任:ト主張する松下電器の営業所長たち、話し合いは平行線のまま、3日間が過ぎたのです。
最後の最後。松下幸之助が「悪いのは松下だ」と宣言し、頭を下げて、会長職から営業本部長に肩書きを変え、待ちした幸之助氏の陣頭指揮で、大手メーカーが倒産する中、パナソニックは証券不況を乗り越えます。
「共存共栄」が松下幸之助の理念でしたが、その理念が実現できていない現実を突きつけられ、自ら頭を下げたところに、松下幸之助の素晴らしさがあります。
失敗をミスを認めずに他人に責任を押しつける人が多いように思います。これまでも失敗について書いていますが、失敗やミスを素直に認めて、謝るべきは謝り、その原因を明らかにして修正することです。
松下幸之助氏が逝去したのは1989年、30年以上が経っていますが、松下幸之助氏の経営哲学は未だに色あせることはありません。
明日は、ジョン・P・コッター著「幸之助論」(ダイヤモンド社)を紹介します。