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休日の本棚 生きる意味

おはようございます。

今日は、休日の本棚、本の紹介です。以前、「ライフスパン 老いなき世界」という本を紹介しました。最先端科学とテクノロジーが老化のメカニズムを解明し、誰もが人生120年時代を若く健康に生きられるというわけです。そこで今日は「死」についての本を紹介しようと思っていました。

ここ数年、シェリー・ケーガン著「DEATH 『死』とは何か」(文響社)、五木寛之著「死の教科書」(宝島新書)、橋爪大三郎著「死の講義」(ダイヤモンド社など死に関する書物が立て続けに出版されています。

シェリー・ケーガン氏の書も橋爪氏の書も哲学的あるいは社会学的な見地から「死とは何か」を問い求めていますが、橋爪氏は「死んだらどうなるか、死んでみるまでわからない。だから死んだらどうなるかは、自分が自由に決めていい。宗教の数だけ、人々の考え方の数だけ、死んだらどうなるか、の答えがある。そのどれにも大事な生き方が詰まっており、人生の知恵が込められている」と言っています。

以前、ビートたけしさんの「間抜けの構造」を紹介した際に、「人間というのは『生と死』の一瞬の間にしかすぎないのだから、限られた期間を精一杯生きればいい」というような趣旨のことを書きました。

むしろ、「死とは何か」を考えるよりは「生きる意味」を考えた方がよさそうです

そこで、今日は上田紀行著「生きる意味」(岩波新書を紹介します。

一部屋に一台テレビがるような暮らし。一家に一台も二台も車があるような暮らし。物にあふれているが、それを使って夢を描けない社会。一所懸命働き、社会に貢献してきた人たちがもはや価値はないと思わされ、老後の不安に駆られるような社会。生きることの空しさを感じ、自分などいなくてもいいのではないかと思ってしまうような社会。コロナ禍において自殺者が増え、こうした思いに駆られている人は多いと思います。それは経済的不況が原因ではありません。景気が回復すれば解決されるという容易いもので張りません。問題の本質はもっと深いところにあります。著者は、私たちが直面しているのは「生きる意味の不況」であると言っています。この本は、私たちの「生きる意味」の豊かさを取り戻すことを目的として書かれ、私たちから「生きる意味」を奪っている原因を探り出し、そこを突破して、いかに自分自身の人生を創造的に歩むことが出来るかを考えています。

「生きる意味」は人ぞれぞれ違います。一人一人が自分の「生きる意味」を見つけ、その「生きる意味」に支えられた人生を実り豊かに歩むことが出来れば社会は大きく変わるはずです。

第1章 「生きる意味」の病

 私たちの社会を襲っている問題の本質は、「生きる意味」が見えないということです。日本のいたるところで起きている「生きる意味」の雪崩のような崩壊、それは「なぜ自分が生きているのかが分からない」「生きることの豊かさ、何が幸せかが分からない」ということです。

高度経済成長期において、私たちは「他人が欲しがるものを自分も欲しがっていれば安心」であり「生きる意味」を探求する力が失われ、バブル崩壊とともに私たちの人生を支えてきた「生きる意味」のシステムが崩壊したというのです。「みんなと同じ欲求」を持ち「みんなが目指す」人生を歩んでいれば幸せにやっていける時代が崩壊し、自分で「生きる意味」を探し求めなければならなくなったのにどうしてよいかが分からないというわけです。これからは、決まったものが与えられる時代ではなく、一人一人が「生きる意味」を構築していく時代が到来しているのです。

第2章 「かけがえのなさ」の喪失

 日本には、ベネディクトが「菊と刀」で指摘したように、「人の目」を気にする「恥の文化」があります。これまでの日本社会はある意味で「子供社会」であり、親(上司・先輩・先人)の言うこと聴いていれば何事もうまくいくように見えました。しかし、親も本当は自分の頭で物事を考えているのではなく「世間様」の目から縛られるままに行動してきたのです。自分が生きたいように生きる」のではなく「他人と同じものを欲しがり他人と同じ人生を生きる」ことが求められ、その結果著者が言うように、他者に受け入れられるように個性のない「透明の存在」の呪縛が生まれたのです。

一人一人は個性を持ったかけがえのない存在です。「透明の存在」の呪縛から解放され、自分の人生を自分が生きたいように生きることが重要になってきます。「生きる意味」を再構築し、私たちが自分の生を取り戻すことが必要なのです。

第3章 グローバリズムと私たちの「喪失」

 「グローバル・スタンダード」の名のもとに押し進められている日本の構造改革は、世界的に見ても決して「スタンダード」を目指すものではなく、グローバルという名の下で新自由主義的な弱肉強食的なイデオロギーを導入することになり、格差を拡大させて社会の信頼を失わせることになります。これは、負ければすべてを失ってしまうのではないか、誰も助けてくれないのではないかという不安が人々の心を蝕んでいます。

グローバル経済システムにおける人間、構造改革が目指す人間はとてつもなく「強い」人間でなければやっていけないということになります。こうした状況が続けば、格差がさらに拡大し、「生きる意味」のさらなる崩壊を招きます。私たちが求める本当の「強さ」とは、もっと包容力のある強さ、大人の成熟した強さ、自分の強さも弱さも知り、人の心の痛みが分かる強さでなければなりません。不安と恐れから行動を発するのではなく、自分自身と社会への信頼に満ちたおおらかな生き方が求められます。

第4章 「数字信仰」から「人生の質」へ

 高度経済成長期以降、すべてが数字で評価され、経済成長さえすれば幸せになるという風潮があります。しかし、「生きる意味」は数字では測れませんし数字で評価できるものではありません。数字にこだわることで生命力が奪われ、生活の質や人生の質が低下することにもなりかねません。収入が上がれば豊かになるかと言えばかえって過労死の危険が増し、家庭の崩壊・親子関係もバラバラになるという弊害も生まれます。収入だけが豊かさの指標でありません。収入や数字では心の豊かさは測れません。

数字への執着を手放し、真の豊かさ、「生きる意味」の豊かさにシフトすること、そのプロセスこそが私たちの文明的な課題です。

第5章 「苦悩」が切り開く「内的成長」

 今私たちの社会に求められていることは、「ひとりひとりが自分の『生きる意味』の創造者になる』こと」と言います。私たち一人ひとりが自分の生きる意味を創造していける社会への変革です。

今までは、「誰かが意味を与えてくれる」ことに慣れていましたが、これからは、自分自身で生きる意味を見つけ、自分の力で生きる意味を実践し、自分の人生を歩まなければなりません。人の人生ではありません。自分の人生なのです。

経済的な成長ではなく自分の内面の成長「内的成長」が求められます。生まれてから死ぬまで、「生きる意味」は成長し続けるのです。「生きる意味」の歴史は積み重なり、人生経験となって私たちの生きる意味をさらに深めていきます。私たちの人生は「生きる意味」の成長なのです。

人がワクワクすることを喜び、人が苦悩することを供に受けとめ、私たちの「内的成長」は他者に支えられることから大きなエネルギーを得ます。「内的成長」を支えるのは、他者との「豊かな」コミュニケーションです。豊かなコミュニケーションを可能にする社会づくりが重要になってきます。

第6章 「内的成長」社会へ

 いま必要なことは、「生きる意味」を巡るコミュニケーションの豊かさを取り戻し、「内的成長」を促す社会の再構築です。個人のレベルで言えば、私たち一人一人が自分自身の「内的成長」への感受性を高めるとともに、他者の「生きる意味」への配慮ができる人間になることです。社会的には、個人レベルの意識に支えられながら、「生きる意味」を育むような中間世界、コミュニティーを再創造することです。

「私たちの生きる意味を育むコミュニティー」というのは、「ワクワクすることを発見し、他者のワクワクすることと刺激し合って、相乗的に実現していくようなコミュニティー」「苦悩が受け止められ、深い実存的なコミュニケーションの中から自分の生きる意味を発見していけるようなコミュニティー」のことです。

第7章 かけがえのない「私」たち

 押し付けられた「生きる意味」ではなく、自分自身の人生を取り戻すこと、それは抑圧された自分自身から<我がまま>に生きることへの転換です。自己中心的で回りを意に介さない<ワガママ>とは違います。<ワガママ>が横行する社会は一人一人の自己信頼、自尊心が低い社会です。失われた自尊心を取り戻し、「人の目」がなくても「自分の目」から見て判断できる社会を構築しなければなりません。

長々と本書の各章の要約を書いてきましたが、簡単に言えば、「一人一人が自分の生きる意味を見つけ、自分の人生を自分の意思で生きていかなければならない」ということにつきます。

内容的にはごもっともなのですが、よく考えてみると「自分自身の人生の生きる意味を探し出せ」ということにある種のしんどさや苦しさを感じ、それが逆に生き辛くするようにも思えます。「生きていても仕方がないんじゃないか」「自分なんていなくてもいいんじゃないか」と思っているような人に「生きる意味を考えろ」と言っても逆効果です。むしろ、生きる意味を真剣に考えるというよりは、今この瞬間を真剣に生き抜けば自然と「生きる意味」がついてくるように思います。

人間なんて宇宙から見ればちっぽけな存在、宇宙の歴史から見れば人生なんて瞬きするくらいの短い時間にしかすぎません。生きる意味を見つけるのに労力を使うならば、今という一瞬一瞬に自分の好きなこと・やりたいことをやっていけばいいのではないかと思います。

人間なんていつかは死ぬものです。「死」を考えたってあまり意味はありません。死後どうなるのか、死ねば分かります。

「死ぬまで一瞬一瞬を真剣に生きる」と言っても、それでは息が詰まります。時には「いい加減さ」も大事です。時には息抜きも必要です。

アクセルを踏み、上手くブレーキをかけ、人生という短いロードを安全運転で進んでいけばいいのではないでしょうか。