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休日の本棚 読書という荒野

f:id:business-doctor-28:20200816085504j:plainおはようございます。

昨日の新規感染者は全国で1233人で、そのうち東京385人、大阪151人となっています。大阪では重症者が70人と過去最多となり、重傷者の病床使用率も37.2%と増えています。ほぼ1月前の7月12日の段階では重症者5人、病床利用率2.7%からすれば大幅増で今後が心配です。また神奈川では過去最多の136人、そのほか愛知72人、福岡75人、沖縄48人となっています。沖縄の病床使用率は98%で、沖縄の医療体制は完全にひっ迫しています。早急に手を打たないと取り返しがつきません。更なる病床の確保と、医師・看護師・保健師の補充が急務です。

さて、今日は、見城徹著「読書という荒野」(幻冬舎)を紹介します。著者の見城氏は、角川書店の編集長・取締役編集部長を得て、幻冬舎を設立し、五木寛之大河の一滴」、石原慎太郎「弟」唐沢寿明「ふたり」、郷ひろみ「ダディ」、村上龍13歳のハローワーク」、劇団ひとり陰日向に咲く」、渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」など数々のミリオンセラーを世に送り出しています。またご自身でも「編集者という病」「たった一人の熱狂」「憂鬱でなければ、仕事じゃない」「絶望しきって死ぬために今を熱狂して生きろ」(藤田晋との共著)などの著書があります。

その見城氏が「読書」について書かれた読書論というのが本書です。編集者として多くの本を読み、作家たちと向き合ってこられたわけですから、見城氏にとっては読書は仕事であるとともに戦場です。まさに見城氏にとって読書は真剣勝負です。こうした読書に対する見城氏の姿勢には見習うところがあると思います。ただ、読書には見城氏のような真剣勝負としての場と娯楽・趣味として楽しむ場があると思います。それぞれの場に応じた楽しみ方や姿勢で読書に接していけばよいのではないかと思っています。

さて、見城氏は、読書とは「何が書かれているか」ではなく「自分がどう感じるか」だと言います。本には、人間社会を理解する上でのすべてのことが含まれています。人間一人が経験から学べることなど読書から学べることに比べれば高が知れています。「読書」とは、実生活では経験できない「別の世界」の経験をし、他者への想像力を磨くことを意味します。本の頁を捲ることによって、人間の美しさや醜さ、葛藤や悩みが見えてきます。そこには自分の人生だけでは決して味わえない芳醇な世界が広がり、その中で人は言葉を獲得すると言っています。

また、見城氏は「自己検証、自己嫌悪、自己否定の三つがなければ、人間は成長しない」と言います。「読書によって、正確な言葉と自己検証がもたらされ、正確な言葉と自己検証によって深い思考が可能になり、その深い思考こそがその人の人生を決める唯一のバックボーンになる」というのです。

ただ、見城氏は「たくさん読むことがいいことだ」という風潮に異を唱えます。読書を単なる「情報取得の手段」としてとらえ、ビジネス書や実用書ばかり読んで知識ばかり積み重ねても意味がないというわけです。教養とは知識の積み上げではなく、人生や社会に対する深い洞察、言い換えれば「思考する言葉」なのです。胸を掻き毟りながら思考し、汗と血を流しながら実践することこそが重要です。最初に書いたように「何が書かれているか」ではなく「何を感じ取ったか」が重要なのです。読書を通じて感じ取ったことを、自分の心の中に蓄積していけばいいのです。それは、「糠床のように熟成され、思考となって表面に出現してくる」のです。

見城氏自身、「この本を読め」というつもりはないと言われているので、見城氏が挙げられる本について特に紹介はしません。見城氏の読書に対する姿勢についての言葉を紹介していきます。

第1章 血肉化した言葉を獲得せよ。

 ここでは、小学校時代から高校時代までを振り返り、見城氏に施行する言葉を与えた原点と言える本について語られています。

 見城氏は中学時代に虐めにあい、「もう殴られっぱなしになるのは止めよう。自分が死んでもいい。相手を殺してもいい」という覚悟で鉄パイプを持って虐め相手に立ち向かいます。本気で死を覚悟したことで、相手は逃げ出し状況が変わりました。この経験から、何かを変えるためには死んでもいいという覚悟を決めなくてはならないということを学んだといっています。

 見城氏は高校時代の経験から、自己嫌悪や嫉妬など、負の感情を持つことは悪いことではない。いや、むしろ負の感情を経験したことがなければ、人のそれも見抜くことはできないと言います。この高校時代、読書によって、「お前はどう生きるのか」という問いを突き付けられ、自分を恥じ、深く見つめることを余儀なくされたとも言っています。こうした読書経験を通じて反抗的な生徒になりましたが、正しいと思えることを言えなくなったら終わりだとも言っています。

 見城氏が高校までの読書体験で実感したのは、「人間が何かを達成するためには地獄の道を通らなければならないということだ。どんな美しい理想を掲げても実際に成し遂げるためには数多の苦しみ、困難がある。何かを得るためには、必ず何かを失う。代償を払わずして何かを得ることは不可能だ」「人間は一つの人生しか生きられないが、読書をすれば無数の人生を体感できる。そうすることで社会の中での自分を客観的に見ることが出来る。自分はなんて温いんだ、と現実を叩きつけられる。つまり『自己検証能力』が高まるのだ」人間はさまざまな価値観を持つ。そうした他者への想像力を持たない者には、成長も達成もない。・・・それは地道な読書によって厚くなっていく

第2章 現実を戦う「武器」を手に入れろ

 第2章では、大学時代から文芸編集者になる前の時代に読んだ、戦う力を与えてくれた本について語られています。

 見城氏は、「僕は世の中の改変を試みた若者時代を持たない人間を信じない・・・世の中に対する理想を持ち、その理想を貫徹するために苦しみ、悩みぬいた経験を持つことは、どの世代にも重要である。理想を持つことは、すなわち自分の一生をどう生きるかという命題にもつながる。そこを真剣に考えずして大人になった人たちは、どこか薄っぺらい気がする」と言われ「生きることを真剣に考えると必然的に読書に活路を見出すことになる」と言われます。

 「僕の生き方に、読書はやはり決定的な影響を与えている。本とは単なる情報の羅列ではない。自分の弱さを知らされ、同時に自分を鼓舞する、現実を戦うための武器なのだ。僕は無謀な挑戦をする前には必ず、高橋和巳吉本隆明ヘミングウェイらを読み返す。高橋悦子や奥浩平らを思い出す。奥平剛士や安田安之。僕が続くことが出来なかった思想を貫いた者たちの生き方を思う度に、僕は一歩前に進む力を得ることが出来るのだ

第3章 極端になれ!ミドルは何も生み出さない

 五木寛之朝鮮半島から引き揚げてきたという出自から、差別構造を肌感覚で理解して「差別構造」を想像力の産物として描き出す作家です。一方、石原慎太郎は、逆に身の回りにはも名がありすぎて生を持て余しており、だからこそ肉体を本当に差してくるものを渇望していた作家です。見城氏は、こうした両極端にいないと表現者にはなりえないと言います。

表現とは結局自己救済なのだから、自己救済の必要がない中途半端に生きている人の元には優れた表現は生まれない。ミドルは何も生み出さない。想像力は、圧倒的に持つものと、圧倒的に持たざる者の頭の中にこそ生まれるのだ

第4章 編集者という病

 ここでは、何人かの表現者について紹介されています。流石にうまく一言でまとめられています。

  • 中上健次・・・時空を超えた血と憤怒と哀切
  • 村上龍・・・虚無と官能
  • 林真理子・・・過剰と欠落
  • 山田詠美・・・抑えがたい性的な衝動
  • 村上春樹・・・生き方を犯すほどの才能
  • 宮本輝・・・仏教的世界観への変換
  • 百田尚樹・・・驚異的なオールラウンドプレーヤー
  • 東野圭吾・・・見事なまでに人間を描く完璧なミステリー
  • 宮部みゆき・・・「火車」の哀切なラスト
  • 北方健三・・・読者を慟哭させ、魂を揺さぶる
  • 髙村薫・・・歴史や社会の片隅に追いやられた者たちへの深い眼差しと情念
  • 草間彌生・・・性の情念
  • 坂本龍一・・・残酷と悲惨に血塗られた崇高で静謐な創造
  • 尾崎豊・・・自己救済としての表現

ここでは珍しく、読むことを強くお勧めする本として恩田陸の「蜜蜂と遠雷」が紹介されています。確かに面白く感動的な本です。後日紹介します。

第5章 旅に出て外部に晒され、恋に堕ちて他者を知る 

 ここでは、旅と恋愛の本にフォーカスをあて、自分の経験を引き合いに出しながら、両者の持つ真の力について語られています。

 これまで語られているように、「読書」は、自分の人生では経験できないことを味わい自分の問題として捉え直し、他者への想像力を磨くものですが、旅と恋愛も他者への想像力という点では読書と同じく自分を成長させてくれるものです。読書、旅、恋愛の3つをやりきることで、人生を豊かにすることが出来ると言っています。

「僕は恋愛小説こそが、読書の王道だと考えている。レンアイ小説には、人間の感情のすべてが含まれているからだ。人を想う気持ちもそうだが、その過程で見つめざるを得ないエゴイズムもそうだ」

何をすれば相手が喜ぶのか、どんなことを言えば傷つくのか、自分の言動で相手がどういう気持ちになるのか想像する。相手の内面を想像することはすべての人間関係の始まり。恋愛は、(読書と同じく)他者への想像力を養ってくれる

困難に陥ったとき、人は藁をもすがろうとする。その時の心のよすがをどこから得るかと言えば、やはり読書しかない。困難を突破する答えが、スマートフォンで検索すると出てくるように錯覚しがちだ。しかしそうして出てきた答えが、自分の人生を前に進めることはない。・・・一心不乱に本を読み、自分の情念にミニをすます時期は、必ず自分の財産になる。だから、手軽に情報が取れるようになっただけになおさら、意識して読書の時間をねん出すべきだと僕は考えている

第6章 血で血を洗う読書という荒野を突き進め

 ここでは見城氏の死生観が語られています。

「夢」「希望」「理想」「野心」「野望」について厚っぽく語る人間は嫌いだ。「夢」や「希望」など豚に食わせろと言います。また「成功」という言葉も嫌いだと言っています。「成功」はプロセスとして、その時の一つの結果にしかすぎず、「成功」かどうかは自分の死の瞬間に自分で決めるものだというのです。

「読書によって他者への想像力や生きるための教養を磨き、まずは認識者になる。つまり世の中の事象と原理を理解する。そのうえで覚悟を決めて実践者になる。いったん実践者になれば、暗闇の中でジャンプし、圧倒的努力をもって目の前の現実を生き切るのみだ。読書とは自己検証、自己嫌悪、自己否定を経て、究極の自己肯定へと至る、最も重要な武器なのである。生きていくということは矛盾や葛藤を抱えて、それをどうにかしてねじ伏せるということだ

認識者でいるうちは理想や希望を語っていれば、それでいい。しかし、読書で得た認識者への道は、矛盾や葛藤をアウフヘーベンしなくては意味がない。それが『生きる』ということだ。認識者から実践者へ。天使から人間へ。読書から始まった長大な旅は、認識者を経て、人間へとジャンプする。共同体のルールを突破して個体の掟で現実を切り開く、地獄の前進へ。血を流し、風圧に耐えながら、自己実現の荒野へ

このように見城氏の読書は壮絶な戦いです。本書の帯に秋元康氏が「見城徹の読書は血の匂いがする・・・著者の内臓を喰らい、口から真っ赤な血を滴らせている」と表現しています。しかし、こうした読書でしか得られないものもあるのでしょう。なかなか難しいと思いますが、少しはこうした読書姿勢を見習いたいものです。

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