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休日の本棚 本当は魑魅魍魎が跋扈する怖い京都

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京都 八坂神社

おはようございます。

今日は成人の日です。成人の日は1948年祝日法で制定・施行され、嘗ては1月15日でしたが、ハッピーマンデー制度により2000年から1月の第2月曜日になりました。成人の日は、「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ますこと」を趣旨としています(国民の祝日に関する法律)。奈良時代以降、大人になるための儀式として元服という制度がありました。男子の場合、服装や髪形を大人のものに改め、烏帽子をかぶり、女性の場合、着物・髪型はもとより化粧や鉄漿を付けるという風習がありました。現在でも京都の花街などで舞妓さんなどにその風習が残っているようです。

さて、昨日、一昨日と行動経済学ゲーム理論と若干堅苦しい話でしたので、今日は、私が好きな「京都」を取り上げます。しかし、煌びやかで華やかな京都ではなく、恐ろしく怖い京都です。

794年、桓武天皇平城京を捨て、北に玄武・東に青龍・南に朱雀・西に白虎が位置する平安京に遷都します。桓武天皇は、まず、井上内親王他戸親王の祟りから逃れるために長岡京遷都を計画します。しかし、785年桓武天皇の信任厚い藤原種継が殺されるのです。下手人はすぐにつかまり大伴継人、大伴竹良、さらに首謀者として桓武天皇の異母弟で皇太子の早良親王が捕まりました。早良親王は乙訓寺に幽閉されたのち淡路に流されますが、食事を与えられず挙句の果てに衰弱死します。事件から4年後に桓武天皇の母が亡くなり、翌年皇后が亡くなり、天然痘が流行し、早良親王の祟りがささやかれるようになり、皇太子の安殿親王が病に侵されます。さらに遷都を計画していた長岡京を大雨が襲い都市機能が麻痺します。こうした早良親王の祟りから逃れるために、平安遷都が行われたのです。京都洛北に早良親王を祭神とする崇道神社があります。京都で最も怖い神社と恐れられています。平安京に遷都後、早良親王の祟りを恐れて「崇道天皇」の称号を贈り、さらに貞観年間(859~877年)に早良親王の怨霊を封じるために崇道神社が建立されたのです。

しかし、その後も平安京には、魑魅魍魎、鬼や妖怪が跋扈します。

堀川にかかっている一条戻橋があります。一条天皇の頃、源頼光の四天王の一人渡辺綱が一条戻橋で鬼女に出会います。ある夜、渡辺綱が馬に乗り戻橋に差し掛かったところ橋のたもとに美しい女が立っており「五条まで送ってたもれ」と言うのです。渡部綱は女を馬に乗せ五条に向けて馬を進ませますが、正親町小路に差し掛かると女は恐ろしい鬼の姿に変わり渡辺綱の髪の毛を掴むと「わが行くべきは五条にあらず、愛宕山なり」と叫んで夜空にとび上がります。愛宕山は鬼の住処とされていたところです。渡部綱はひるむことなく鬼の片腕を切り落とします。鬼は悲鳴を上げて愛宕山に逃げ帰ります。渡部綱は、切り落とした鬼の片腕を源頼光に献上するのですが、源頼光は有名な陰陽師安倍晴明に相談します。晴明は、鬼の片腕を朱塗りの櫃に納め7日間読経して物忌みをするように言います。読経を続けている最中に頼光の母に化けた鬼が現れ片腕を取り戻そうとしますが、正体を見破られ首を切り落とされてしまいます。

なお、安倍晴明の屋敷は一条戻り橋の近くにあり、今は晴明神社が建っています。安倍晴明の母は狐だといいます。安倍晴明なら夢枕獏氏の陰陽師シリーズ(文春文庫)が面白いです。

一条戻橋ですが、「死者さえ生き返る橋」という伝説もあります。渡部綱が鬼と出会う100年ほど前のこと、文章博士兼大学頭であった三善清行の葬送の行列が橋の上に差し掛かったとき、清行の息子淨蔵が熊野から駆け付けます。淨蔵は1日早く戻れば生きている父に会えたのにと悲嘆にくれます。その時、雷鳴がとどろき棺の蓋が開いて清行が起き上がるのです。これが戻橋の由来であると「撰集抄」に書かれています。

また、一条戻橋の近くに白峯神社があります。白峯神社は、京をさまよい様々な災害をもたらしてきた崇徳天皇の怨霊を鎮めるため明治天皇によって建てた神社です。後白河天皇と争った保元の乱(1156年)に敗れた崇徳天皇は讃岐に配流されますが、讃岐で仏教に帰依し五部大乗経の写経を完成させ、朝廷に京都の寺に納めてほしいと差し出します。しかし、後白河天皇に写経の受取りを拒否され、これに激怒した崇徳天皇は舌をかみ切ってその血で写経に呪いの言葉を書き込みます。後白河天皇の第一皇子二条天皇、その妻、孫の六条天皇が相次いで亡くなり、1177年に京の3分の1を焼く安元の大火、翌年の治承の大火、反乱、飢饉が立て続けに起こり崇徳天皇の祟りと恐れられるのです。崇徳天皇の怨霊を鎮めるために神霊として祀ったりしましたが静まることはなく、明治天皇が父の孝明天皇の遺志を継いで白峯神社を建立しました。

さて、次は六道の辻にある六道珍皇寺です。六道の辻がこの世とあの世の境で冥界への入り口と言われています。六道とは、仏教で地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人道・天道の六種の冥界のことで、因果応報により死後この六道を輪廻転生すると言われています。六道珍皇寺には小野篁作の閻魔大王像が祀られています。小野篁は平安職の公卿で文武に秀で学者・詩人・歌人としても知られた存在です。篁は、遣唐使の副使に三度任命されたが暴風雨で帰還し、嵯峨上皇の怒りを買い隠岐の島に配流されるが許され参議にまで上り詰めます。しかし、昼は朝廷に仕え、夜は閻魔大王のつかえていたという伝説がある人物です。これは「今昔物語」等に書かれています。しかも生前からそのような噂があり恐れられていたのです。六道珍皇寺の境内には、篁が閻魔庁に仕えるために使ったとされる「冥途通いの井戸」と「黄泉帰りの井戸」があります。

最後に、今はカップルが座って語り合う鴨川の河川敷ですが、「三条河原」と言われていた三条大橋付近は、戦国時代から明治に至るまで処刑場であると同時に首が晒され死体が打ち捨てられていたところです。安土桃山時代には大盗賊石川五右衛門が処刑され首が晒され、豊臣時代には豊臣秀次一族が処刑・晒し首にされその時は三条河原は血で真っ赤に染まったと言われています。また、徳川家康によって石田三成の首も晒され、新選組近藤勇も板橋刑場で斬首されたのちに三条河原に運ばれて晒されています。

京都で怖い話や場所はまだまだあります。また機会があれば書きます。

こうした怖い京都も好きです。こうした場所を巡るのも面白いです。

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左上:一条戻橋 右上:晴明神社 左下:六道珍皇寺 右中:白峯神社 右下:鴨川河川敷

 

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浅井建爾著「本当は怖い 京都の地名散策」(PHP)、高野澄著「京都の謎」(祥伝社黄金文庫)など、怖い京都について書かれた面白い本です。