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休日の本棚 絶望名人カフカの人生論

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おはようございます。

昨日の新規感染者は2278人、そのうち東京822人、神奈川355人、埼玉150人、千葉180人、愛知66人、大阪143人、兵庫38人、京都34人、福岡60人、沖縄55人、北海道50人などとなっています。東京の緊急事態宣言発令に伴い酒類の提供が禁止されますが、本当にコロナ感染拡大は飲酒が原因でしょうか? すべて飲食店が悪いように言われていますが、しっかりとルールを守れば飲酒・会食も問題はないはずです。原因は無為無策、後手後手の政府の対応にあります。悪いのは菅政権、政府です。

さて、本の紹介ですが、このところ経営に関する本ばかりだったので、今日は、経営以外の本を紹介します。頭木弘樹編訳「絶望名人カフカの人生論」(新潮文庫です。コロナ禍で、心身ともに疲弊し絶望の淵にいる人も、将来に不安を抱きながらもなんとかこの危機を乗り越えようと努力している人もいます。このような人に読んでほしい本です。

フランツ・カフカは、チェコ生まれのユダヤ人、どこかユーモラスな孤独感と不安の横溢する独特の作品を残しています。

最も有名なのが「変身」ですが、これはカミュの「ペスト」とともに不条理文学の1つとして知られています。「ペスト」が不条理が集団を襲ったことを描いたのに対し、「変身」は不条理が個人を襲ったことを描きました。

ある日、平凡なセールスマンのグレゴール・ザムザが夢から覚めると、一匹の巨大な毒虫に変わった自分の姿を発見するところから始まり、いずれは元に戻ってくれるのではないかと祈る家族との生活が始まります。妹のグレーテが甲斐甲斐しくグレゴールの世話を焼きますが、家族にも限界がきて、家から出て行ってほしいと存在の消滅を望まれるようになり、さらに、家族からも見放されてしまいます。痩せ衰えたグレゴールは、家族のことを思いながらひっそりと息絶えます。グレゴールの遺体は、家政婦によって片付けられ、散策に出た家族は将来への希望を持ち、娘のグレーテは長い苦労にもかかわらず、美しい娘に成長していました。

ここで語られている「毒虫」は比喩で、「これまであると信じていたていたアイデンティティが変わり果ててしまった存在」を意味しています。人間のアイデンティティがどう社会に存在しているのかを、毒虫に変わった主人公と家族との関係性を通じて描いています。人間は自分が自分であるということを他者との関係性の中でコミュニケーションを通して確認し、自分の社会的存在を認識することができます。「毒虫」となったグレゴールは、内面では人間の意識を持っていますが、自分の気持ちを伝えることができません。家族にとっては、コミュニケーションできない毒虫はもはやグレゴールではなく単なる毒虫となっていくのです。

しかし、カフカが描きたかったのは、、醜いものに変身した瞬間、周りの反応も冷たくなり、家族からも見放されてしまうから、見た目は大事ということではありません。

カフカは比較的裕福な家庭で育っています。実業家として働いていた父と、哲学や文学を専攻したいカフカとの間で軋轢があり、父はカフカを「失業者死志望」と嘲ったと言われています。父親にとっては哲学や文学は「役に立たないもの」だったのです。カフカは「役に立つもの」と「役に立たないもの」との葛藤の中で苦しんでいたのです。この毒虫こそ「役に立たないもの」ですが、本当に役に立たないものなのでしょうか? 「役に立つもの」と「役に立たないもの」というのは誰が決めるのでしょうか? カフカは、「役に立たないもの」とされるものが排除されることへの嘆きや「役に立たないもの」とされるものが排除されることへの警鐘を鳴らしているように思います。

さて、今日紹介する本は、絶望名人とされるカフカの名言集です。カフカの日記やノート、手紙には、自虐や愚痴が満載していて、それらを集めたのがこの本です。悲惨な言葉が並んでいますが、思わず笑ってしまったり、逆に勇気づけられて元気がもらえる言葉があります。

心がつらいとき、本当に必要なのは、ポジティブな言葉でしょうか。本当につらい時「追い続ける勇気があればすべての夢はかなう」(ウォルト・ディズニーと励まされても、その言葉が心に響くでしょうか。本当に心がつらいとき、必要なのは、その気持ちに寄り添ってくれる言葉です。つらい気持ちをよく理解し、一緒に泣いてくれる人です。アリストテレスは、「その時の気分と同じ音楽を聴くことが心を癒す」と言います。悲しい時には悲しい音楽を聴くといいのです。それと同じく、悲しい時、つらい時にはカフカのような絶望的な言葉を聞いいたり読んだりする方が心にすっと入ってくるのです。

カフカは、生前はほとんど知られることはなく、死後に再発見・再評価され、現在では20世紀を代表する作家の1人になっています。誰よりも深く落ち込み、誰よりも情けない弱音を吐いたカフカの言葉が現代人にも勇気を与えてくれるはずです。この本の中から、カフカの言葉をいくつか拾って紹介します。

  • 将来に向かって歩くことは僕にはできません。将来に向かって躓くこと、これはできます。一番うまくできるのは、倒れたままでいることです。
  • バルザックの散歩用のスティックの握りには、「私はあらゆる困難を打ち砕く」と刻まれていたという。ぼくの杖には「あらゆる困難がぼくを打ち砕く」とある。共通しているのは「あらゆる」というところだけだ。
  • ぼくはいつだって、決して怠け者ではなかったと思うのdすが、何かしようにも、これまでやることがなかったのです。そして生きがいを感じたことでは、非難され、けなされ、叩きのめされました。どこかに逃げ出そうにも、それはぼくにとって、全力を尽くしても、到底達成できないことでした。
  • 目標があるのに、そこにいたる道はない。道を進んでいると思っているが、実際には尻込みをしているのだ。
  • 人間の根本的な弱さは、勝利を手にできないことではなく、せっかく手にした勝利を、活用しきれていないことだる。
  • 生きることは、絶えずわき道にそれていくことだ。本当はどこに向かうはずだったのか、振り返ってみることさえ許されない。
  • ぼくはひとりで部屋にいなければならない、床の上に寝ていればベッドから落ちることがないように、ひとりでいれば何事も起こらない。
  • ずいぶん遠くまで歩きました。5時間ほど、ひとりで。それでも孤独さが足りない。全く人通りのない谷間なのですが、それでも寂しさが足りない。
  • 死にたいという願望がある。そういう時、この人生は耐えがたく、別の人生は手が届かないように見える。イヤでたまらない古い独房から、いずれイヤになるに決まっている新しい独房へ、何とか移ってほしいと懇願する。
  • ぼくはただ自分のことばかり心配していました。ありとあらゆることを心配していました。たとえば健康について。ふとしたことから消化不良、脱毛、背骨の歪みなどが気になります。その心配がだんだん膨れ上がって言って、最後には本当の病気にかかってしまうのです。
  • ぼくは人生に必要な能力を、なにひとつ備えておらず、ただ人間的な弱みしか持っていない。
  • いっさいの責任を負わされると、おまえはすかさずその機会を利用して、責任の重さのせいでつぶれたということにしてやろうと思うかもしれない。しかし、いざそうしてみると、気づくだろう。おまには何ひとつ負わされておらず、おまえ自身がその責任そのものに他ならないことに。
  • ぼくは本当は他の人たちと同じように泳げる。他だ。他の人たちよりも過去の記憶が鮮明で、かつて泳げなかったという事実が、どうしても忘れられない。そのため、今は泳げるという事実すら、ぼくにとってはなんの足しにもならず、ぼくはどうしても泳ぐことができないのだ。
  • 幸福になるための、完璧な方法がひとつだけある。それは、自己のなかにある確固たるものを信じ、しかもそれを磨くための努力をしないことでる。
  • ぼくはお父さんの前に出たが最後、まるで自信というものをなくしていました。その代わり、とめどなく罪の意識がこみ上げてきました。そのことをもい出しながら、ぼくはある作中人物について、「自分が死んでも、恥ずかしさだけが後に残って生き続けているかのようだった」と書いたことがあります。
  • お父さんとぼくは、求めるものがまるでちがっています。僕の心を激しくとらえることが、あなたには気にも止まらず、また逆の場合もあります。あなたにとっては罪のないことが、僕には罪と見え、これも逆の場合があります。そして、あなたにとっては何の苦にもならぬことが、ぼくの棺桶のふたとなりうるのです。
  • ぼくに必要だったのは、少しの励ましと優しさ、わずかだけ僕自身の道を開いてもらうことでした。それなのにあなたは逆に、それを閉ざしてしまった。もちろん、ぼくに別の道を歩ませようという善意からです。しかし、僕にはその能力がなかった・・・あなたの好きな言い回しを、あなたの後いついて片言でいえたとき、あなたはぼくを励ましてくれました。けれども、そんなことは、ぼくの未来とは何のかかわりもなかったのです。
  • ときおりぼくは想像します。世界地図を広げられて、それを覆い隠すように、お父さんが身体を伸ばしておられる様子を。ぼくが人生で活用できるのは、あなたの身体が覆い隠していない部分だけかもしれません。でも、あなたは巨大ですから、残っているのはごくわずかしかありません。喜びのない辺境ばかりで、肥沃な土地はそこにはないのです。
  • 僕h同級生の間では馬鹿でとおっていた。何人かの教師からは劣等生と決めつけられ、両親とぼくは何度も面と向かって、その判定を下された。極端な判定を下すことで、人を支配したような気になる連中なのだ・・・これには腹も立ち、泣きもした。自信を失い、将来に絶望した。そのときのぼくは、舞台の上で立ちすくんでしまった俳優のようだった。
  • 考えてみれば見るほど、ぼくが受けた教育は、ぼくにとっては毒害であった。非難されるべき人は多い。ぼくがその人たちの授業を受けながら、その当時、何か他のことに気を取られていたために、授業にまるっきり注意を向けなかった、そういう人たちだ。この非難に癌論されたとしても、ぼくは聞く耳を持たない。
  • ぼくの勤めは、ぼくにとっては耐えがたいものだ。なぜなら、ぼくが唯一やりたいこと、唯一の使命と思えること、つまり文学の邪魔になるからだ。
  • ぼくが仕事を辞められずにいるうちは、本当の自分というものがまったく失われている。それがぼくにはいやというほどよくわかる。
  • この前、ぼくが道端の草の茂みに寝転ぼうとしていると、仕事でときどく会う身分の高い紳士が、さらに高貴な人のお祝いに出かけるために、着飾って二頭立ての馬車に乗って通りかかりました。ぼくはまっすぐに伸ばした身体を区さの中に沈めながら、社会的地位から追い落とされていることに喜びを感じました。
  • ぼくの生活は以前から、書く試み、それもたいてい失敗した試みから成り立っていました。書かないときは、ぼくは床に横たわり、箒で掃き出されて当然といった状態になるのです。
  • 彼は、彫刻を掘り終えた、と思い込んでいた。しかし、実際には、たえず同じ所に鑿を打ち込んでいたにすぎない。一心に、というより、むしろ途方に暮れて。
  • 文学者としてのぼくの運命は、非常に単純だ。夢見がちな内面生活を描写することが人生の中心となり、他のすべてのことを二の次にしてしまった。ぼくの生活はおそろしくいじけたものになり、いじけることをやめない。
  • 誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。
  • 女性は、いやもっと端的に言えば結婚は、お前が対決しなければならない実人生の代表である。
  • 実際ぼくは、人と交際するということから、見放されていると思っています。見知らぬ家で、見知らぬ人たち、あるいは親しみを感じられない人たちの間にいると、部屋全体がぼくの胸の上にのしかかってきて、ぼくは身動きができません。
  • 二人でいると、彼はひとりでいるときよりも孤独を感じる。誰かと二人でいると、相手が彼につかみかかり、彼はなすすべもない。一人でいると、全人類が彼につかみかかりはするが、その無数の手が絡まって、誰の手も彼に届かない。
  • 友人とのかかわりについて、いま自分なりに整理してみると、それはむなしい助走であった。人が長い人生の間に繰り返し試みる、たいていは希望のない助走のひとつ。女装だから、次には跳躍が来る。しかし、はたして前向きに人生の中に飛び込んでいけるのか、それとも人生から飛び出してしまうのか、当人にも見当もつかない。
  • 真実の道を進むためには、一本の綱の上を越えていかなければならない。その綱は、べつに髙ところに張られているわけではない。それどころか、地面からほんの少しの高さに張られている。それは歩いていかせるためよりも、むしろつまずかせるためのようだ。
  • 避けようとして後ずさりする、しかめっ面に、それでも照りつける光。それこそが真実だ。ほかにはない。
  • すべて幻影だ。家族も、仕事場も、友達も、道も。遠くにいようと、近くにいようとも、すべて幻影だ。女性もそうだ。すべてはおまえの頭の中にしかない。窓もドアもない独房の壁に、おまえが自分の頭を押しつけているのだけが真実だ。
  • ベッドでじっと横になっていると、不安がこみ上げてきて、とても寝ていられなくなる。良心、果てしなく打ち続ける心臓、死への恐怖、死に打ち勝ちたいという願いなどが、眠りを妨げる。仕方なく、また起き上がる。こんなふうに寝たり起きたりを繰り返し、その間にとりとめもないことを考えるのだけが、ぼくの人生なのだ。
  • 結核がひとつの武器です。ぼくはもう決して健康にならないでしょう。ぼくが生きている間、どうしても必要な武器だからです。そして両者が生き続けることはできません。
  • ぼくの病気は心の病気です。胸のほうは、子の心の病気が岸辺からあふれ出たものにすぎません。脳が、自分に課せられた新郎と苦痛に耐えかねて、言ったのです。「オレはもうダメだ。誰かどうかこの重荷を少し引き受けてくれないか」そこで肺が志願したというわけです。この脳と肺の闇取引は、おそろしいものであったかもしれません。

苦しみはカフカの力の源でした。神経の苦しみから自分をすくうために、カフカは作品を書き続けるのです。

今は、ポジティブ思考が流行っています。しかし、人を前に進めるのは、ポジティブな力だけではありません。ネガティブな言葉からも力を引き出すことができます。それを現実に行っていたのがカフカです。

この混迷する時代にあってカフカの言葉が、われわれの背中を押してくれるかもしれません。

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