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休日の本棚 三島由紀夫没後50年(2)

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おはようございます。

昨日の新規感染者は全国で2168人、そのうち東京391人、神奈川163人、埼玉115人、千葉80人、愛知144人、大阪490人、兵庫139人、北海道245人などとなっています。本来ならば少ないはずの日曜日に2000人を超える新規感染者が出ました。一人一人の意識が大切ですが、3連休は我慢の3連休ではなく羽を伸ばし3連休となってしまったようで各地の観光地や繁華街は人であふれています。

政府はGoToキャンペーンの見直しを決定しましたが、駆け込み予約が増えているとのことで、政府に踊らされているとはいえ人間の愚かさが垣間見れます。感染者数の急増でコロナ死者も2000人を超えました。欧米に比べれば少ない数ですが、感染が爆発的に拡大すると高齢者や基礎疾患保有者の感染が増加し死者も増加します。自分の愚かな行動で家族や高齢者を命の危険に晒すようなことはしたくありません。しっかりと感染防止対策を行い自覚ある行動をとりたいと思います。

さて、今日も昨日に続けて三島由紀夫を取り上げます。

何故三島は昨日書いたような壮絶な死に様を見せなければならなかったのでしょうか。

これについては多くの三島研究者が書いており、一冊どころか何冊もの本になることでしょう。三島由紀夫をそれ程愛読したことがなく、逆に嫌悪感すら抱いていた私がとやかく書くべきことではないかもしれませんが、私なりに考えるところを書いてみたいと思います。

三島由紀夫(本名:平岡公威)は1925年に東京の四谷で東京帝国大学を卒業し農商務省に勤務する父と東京開成中学校長の次女であった母の長男として生まれますが、三島を育てたのは母方の祖母夏子です。夏子は徳川家とも姻戚関係にあった江戸幕府最後の若年寄永井玄蕃頭を祖父に、大審院判事永井岩之丞を父に持つプライドの高い女性でした。夏子は、農家の出であり苦労して東京帝国大学に入り官僚となった夫を始終軽蔑し、激しいヒステリー気質であったと言います。母親の手から奪い取った夏子が、手塩にかけて自分の分身のようにかわいがり育てたのが三島でした。その育て方は異常とも思えるもので、「病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室」で男の子と外で遊ぶことは禁じられ、遊び相手は夏子が選んだ女の子3人だけ、折り紙や積み木、ままごとに戯れ、買い与えられた蓄音機で童謡を聞くという毎日だったと言います。夏子は小学生だった三島に泉鏡花の本を与え、歌舞伎の話を聞かせ、歌舞伎公演に連れて行くなど、こうしたことが後の三島の人生に大きな影響を与えたものと考えられます。

三島由紀夫は、「仮面の告白」や「禁色」(ともに新潮文庫)で同性愛を描きます。

自伝的小説である「仮面の告白」では、誕生から成人した現在までの「仮面」を被った「私」の「告白」が描かれています。「私」は女性に魅力を感じず、たくましい男ー汚穢屋、兵隊、地下鉄のキップ切り、落第してきた同級生ら―に魅力を感じ、そうした性的嗜好に苦しみます。戦争が激化する中、級友の妹と出会い、愛され、幸せらしいものに酔うのですが、唇を重ねた瞬間何かが違うと悟って結婚の申し出を断り逃げ出します。戦後、他家に嫁いだ級友の妹と再会し性的関係がないまま逢引きするようになりますが、その時でも「私」の目はたくましい若者に引き付けられます。

女を愛せない同性愛者の苦悩を描いたこの作品が三島の性的嗜好を表していると考えるのは早計です。三島は見合い結婚して二子をもうけています。以前、三島と美輪明宏(当時、丸山明宏)との親密な関係が取りざたされたことがありましたが、美輪は「男女の関係(?)にはなかった。互いに尊敬しあっていた」と発言しています。

三島は、多様な性のあり方を肯定していたのではないかと思います。仮面の告白」と「禁色」では男性同性愛を、「春子」でレズビアンを、「鏡子の家」ではサディズムマゾヒズムを、「幸福号出帆」「音楽」では兄妹相愛を、「愛の渇き」では舅との肉体関係を、「金閣寺」では性的不能を、「沈める滝」では不感症を描くなど、多彩なエロスに目を向けて描き切っています。

また、三島は、イタリアの天才詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオの「セバスチャンの死」を邦訳し「殉教」というタイトルで出版しています。「仮面の告白」の中にもグイド・レー二作「聖セバスチャンの殉教」が「私」をたくましき男へのあこがれを目覚めさせた一枚の絵画として出てきます。三島由紀夫の写真集「薔薇刑」の中で、三島は聖セバスチャンに扮しています。これは、単なる写真集のポーズではなく、三島の市ヶ谷自決事件を暗示し象徴するかのようです。

ダヌンツィオは、第一次世界大戦頃からパリの社交界の寵児で、自己顕示力が強く、超愛国的で、派手な政治的言動でも有名でした。私的な軍隊を作ったことも、盾の会を作った三島と酷似しています。ダヌンツィオはその軍隊でクーデターを起こしイタリア北部を占拠し、正規軍が包囲、1月にわたり籠城しています。

三島の中に、ナルシシズムや強い男への異常なあこがれがあったことは事実です。祖母夏子に女の子のように育てられ病弱でひ弱であった三島は、30歳を超えた頃からボディビルに目覚め肉体改造に取り掛かります。そうした中で、右翼的な思想に傾いていったのではないかと考えられます。文芸評論家の田中美代子は、三島文学を「女の部屋から生まれ、育まれた」と言っていますが、眺める女の目を通じて、行動する男の肉体を眺め、それに憧れ、それを追慕しながら、なお三島自身も強い男であろうとする欲望を抱き続けたのでしょう。

三島は性や愛を描きながら、その対象が次第に政治的なものへとなっていきます。「憂国」では、二・ニ六事件に絡んだ自刃を決意した武山中尉と夫に従う夫人、死を決意した二人の濃厚極まる情交と壮絶な最期を描き、「宴のあと」では実際のモデルがあり問題となった東京都知事選での料亭の女将と元外相野口との関係を描き、「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラーを書きます。

先ほどの「憂国」の中で、三島は、「美しい妻との心中」の背後に戦友を討とうとする敵への抵抗を用意し、「主観的な心中」に「客観的な名誉」の観念を付与し、頽廃的な死から栄光ある死に昇華させていきます。

三島作品の背後には「悲劇的なものへの渇望」が強く現れているように思います。

例えば「仮面の告白」の中で汚穢屋に対するあこがれについて

「汚れた若者の姿を見上げながら『私が彼になりたい』という欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私を締め付けた」

「私の官能がそれを求めしかも私に拒まれている或る場所で、私に関係なしに行われる生活や事件、その人々、これらが私の『悲劇的なもの』の定義であり、そこから私が永遠に拒まれているという悲哀が、いつも彼ら及び彼らの生活の上に転嫁され夢見られて、かろうじて私は私自身の悲哀を通じて、そこに与ろうとしているものらしかった」

と書いています。

盾の会の行動原理となる「文化防衛論」の背後にも悲劇的なものが見え隠れしていると言われています。

三島の市ヶ谷自決事件も、クーデターを成功させようという意図は微塵もなく、むしろ自らを悲劇的なヒーローにすることが目的ではなかったかと思われて仕方ありません。

三島が強く訴え続けたことは、憲法改正であり、自衛隊を正式の軍隊にすることでした。三島は自らのクーデターでそれが実現できるとは考えていなかったと思います。三島事件から50年が経ち、安倍政権が憲法改正を強引に推し進めようとし、自民党にとっても憲法改正は悲願ですが、菅政権は憲法改正論を封印しているように思います。憲法改正は簡単に実現できることではありませんし、簡単に行うべきことではありません。憲法戦争放棄に関する前文・条文は世界に誇れる名文だと思いますし、占領軍に押し付けられたものではなく日本が自ら認め作ったものです。

憲法改正の話はこれくらいにして、三島が憂いていたのは、GHQによって日本や日本人に植え付けられた自虐意識ではなかったかと思います。昨日も書いたように三島らが蒔いた「檄」の中にあるように、日本、日本の文化や伝統を守るということ、日本人は日本人としての自信を取り戻せということだったのではないかと思います。

先日書いたように、今、多くの日本人は生きる目標を失い、生きる意味を見失っています。三島が本当に言いたかったのは、人間として、日本人として、生きる意味を見つけ自信と誇りを持って生きろということではなかったか、三島の自決は我々にそれを教えるためのパフォーマンスだったのではないか、そんな気がします。

 今一度三島文学に触れ、生きる意味、生きる目的を考えてみたいと思います。